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『あなたの人生を記録する』

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マカオを飛び出し、積み上げてきた日本での7年間。このままでは終われない。 チンエイショウ(27)食品会社

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パソコン室のアルバイトで知り合い、早7年

 彼との出会いは、パソコン室でのアルバイト。一緒に働き出してから今日に至るまで、多くの時間を過ごしてきた。仕事終わりには、スタッフ達とご飯を食べ、国内旅行や彼の母国であるマカオにも訪れた。大学卒業と同時に会う機会は減ったが、GWや夏休みを利用してはパソコン室のメンバーたちと近況報告を兼ねて再会していた。

 今年の1月には、7年住んだ日本を離れ、生まれ故郷のマカオに帰国。夏休みを利用して友人達と3人で日本への旅行中に時間を作ってもらった。マカオへと帰国した彼の現在。それまでの日本での生活に密着した。

 

きっかけはアニメ。日本に来た理由はコンプレックスもあった

 日本に興味を持った理由は、日本のアニメだった。それをきっかけに日本に行きたいと思うようになる。アニメの影響以外にも、自分の経歴にコンプレックスの克服もあった。「中学1年生の時に留年してしまった。マカオではよくあることだけど、まわりとの差を埋めるためにも日本に留学し、言語という武器を習得しようと考えた。」

 留年してしまった事に、コンプレックスを持っていたようで、その事実を受け止めながら、まだ見ぬ可能性を追い求め、アニメがきっかけとなり日本への挑戦を決めた。

 

勉強、勉強、ひたすら勉強

 高校卒業後は、マカオにある日本語学校に2、3か月通う。挨拶ができる程度の日本語力のみで、いざ日本へ。日本最初の地は神奈川県、川崎市。市内の外語ビジネス学校に1年6か月通う。憧れの日本での生活をスタートさせるも1人暮らしと勉強漬けの日々が始まった。「少しでも多く日本語を修得しようと必死に勉強した。ボランティア活動にも参加し、その地域に住む日本人のたちと交流していた。」

 勉強の成果もあり、”日本語能力試験N1”に合格。(外国人のための日本語のレベル試験。N1~N5まである。N1合格は、ニュースを聞き理解し、新聞をスラスラと読める。ビジネスにおいては会議や打ち合わせで、聞き取りができるレベルとされている。)語学学校での実りある学業を終え、次に大学進学となる。

 

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インタビュー中の風景 撮影:松本俊之

 

日本語上達のためのたったひとつのルール

 東京国際大学、国際関係学部・メディア学科に入学。4年間を振り返ると楽しかったとニコヤカに話す。「日本に来る前は素直な憧れだった。いざ、日本に来たら勉強と日々の生活に必死。大学に行ったら日本の生活を楽しむようになれた。海外で住むのはドキドキするし、新しい発見の連続。でも、言語能力が無いと楽しい経験もできないと思った。だから、語学学校いるときは遊びはそんなにしなかった。」

 在学中にもメキメキと日本語を上達。専門学生時代から”母国の人と交流を持たない”というルールを掲げ、それを大学生活でも貫き通した。「外国で成長したいと考えた時、母国の人とばかり時間を過ごしてしまうと日本語の習得や、経験が乏しくなると思いそこは意識した。」パソコン室の友人達とも冗談を交えながら会話し、お笑い番組も見るなどして留学生とは思えない時事ネタや知識も豊富だった。卒業することろには、自分とまわりを比べると、日本語力やコミュニケーション能力がついたと感じることができた。

 

働く。という新しいチャンレンジへ

 大学卒業後は広告代理店に就職。母国に帰らず就職した理由を尋ねると、「日本での生活が年々好きになった。友人もでき、日本語も上達した。次は仕事として日本でチャレンジしたくなった。」

 その会社では海外に支社もあり、それが魅力で入社。国際社会で活躍したい。その想いで入ったが、会社が求める働き方と自分の価値観が合わず退職する。

 日本で生きていくためには働かなければいけない。次に選んだ職は、携帯の販売員だった。「職場は秋葉原の携帯ショップ。秋葉原が元々好きで、自分の趣味のものが多いところで働けるのが良かった。」

 以前の会社では、営業やデスクワークを行っていたが、今回は接客業。秋葉原という地域柄、観光客も多く仕事が楽しかった。「アジア圏や多くの外国人旅行客が多かった。今の時代、携帯は無いと困るし、生活必需品。私が店頭にいることで、日本語を話せない人たちにサービスを提供し、お客様からありがとう。と言われた。職場にいる人たちからも助かります。と言われることもあった。そのように、人に必要とされることが一番良かった。」

 

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大学時代は友人に勧められ、ロードバイクを購入。箱根まで行った時の道中の一枚。「友達がいると新しいことにも挑戦したいと思える。」友人の重要さを改めて痛した。

 

徐々に実感した日本で働く事のリアル 

 上司の人にも恵まれ、販売技術も多く学べた。すべてが順調に行っていたが、日本で働く事や、故郷に住む両親のことが気がかりだった。「一社目の時もそうだったけど、日本の勤務時間は長く大変だった。家族もむこうに居るし、両親の面倒を見るために帰国した方が良いのかな。と思っていた。マカオでも日本語を使って仕事ができるだろうと考え、様々なタイミングが重なり、帰国することにした。」

 辞めることを職場の人に告げると「帰らないでよ。」と引き留められた。彼の決意は固く、入社から1年3か月で職場を後にするのだが、送別会は2回もしてもらった。こうして彼の19歳から始まった7年間の日本での生活に終止符が打たれた。

 

リスタートのマカオ

 マカオに帰国したのは今年の1月。現在は事務職のオフィスで働き、デスクワークがメイン。実際帰国してみると、日本語はマカオ国内で希少性が高く、生かせる職や産業、現場がなかった。少しでも日本と接点を持とうと、日本の食品の輸入会社に就職。土日には、日本語学校で教師もはじめた。教えている対象は10代が多い。

 本職は朝9時30分から始業で、18時30分に終業。残業も無く、拘束時間は日本と比べて少ない。一方で、取り扱い商品のほとんどは香港から届く。そのため、日本語を使う機会がなく、メールのやり取りも広東語がメイン。業務に関しても興味などを持てないまま3か月程過ぎている。

 「残業も無く、働きやすいが日本語も使えず、デスクワークで人と接する場面がない。日本語という武器を駆使せず働いているのがただただ、はがゆい。」

 

 日本を離れたからこそわかる、カジノ街に住むことの真実


 
日本で多くの時間を過ごし、母国へ帰国。日本で多くを経験した分、自国との比較もできた。「マカオに帰った時に日本の良さがわかった。例として、マカオは娯楽施設しかない。カジノなどの観光産業が主体のため観光客向けのために町が作られ、自国民にとっては住みにくい。」常に、公共機関も旅行者が多く、タクシーの利用も頻繁で交通渋滞が度々起きている。
 家を購入することも困難だ。「マカオは中国の富裕層が住宅を購入することが多く、年々高値になっている。日本では2千万~3千万の住宅が、マカオでは1億5千万程で売りに出されている。自国の人達は到底買える金額ではない。」需要と供給のバランスにより家を買えず、マカオに住む若い人たちは香港に居を構える人もいるそうだ。

 

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彼がマカオに帰省した際に、パソコン室のアルバイトスタッフ数名でマカオに行った時の写真。多くの場所やポルトガル料理のお店を紹介してくれた。

  

 7年間を否定されてしまった気分


 今の一番の悩みは、再び日本で仕事をしたほうが良いのでは。という迷いだ。「青春時代のほとんどを日本で過ごした。マカオに戻り日本語を必要とされず、7年間なにをやってたんだろうなと日々考える。目の前のことをクリアし、また新しいことに挑戦し、クリアする。その挑戦してきたことを否定されてしまった気がしている。このままでは悔しい。」
 帰国して今なお日本の生活が恋しく、事務職で働いたことにより接客業でまた働きたいと強い思いが芽生えた。まわりに日本に行きたいと相談すると、「日本に行ったほうが良いよ。」と背中を押されている。周囲からの賛同がありながら、中々一歩踏み出せないのには多くの理由がある。

 

年齢と共に変化する悩み


 現在、私と同い年の27歳。19歳、20歳の頃のみなぎる挑戦の勢いだけでの選択はできないと話す。「今も若いけど、20歳頃のやりたいからやる。というだけでは踏み出せない。30歳手前で先のことも考えると簡単に日本で働こうとは思えない。」

 年齢だけでなく、両親のことや日本での働き方が、再度の挑戦を躊躇させている。「父親はもうすぐ80歳。母親も60歳となり将来は両親の介護や、手助けをすることが考えられる。長男としての役目を感じ、中々行くと決められない。日本は核家族社会と言われているが、マカオは違う。家族の繋がりが非常に強い。」

 以前まで職場の環境が良いとはいえ、勤務時間や残業も多く精神的に辛かったのもあり、また同じ生活になるのではと思ってしまうのも悩みの種だ。「7年間考えても今が一番の悩んでいる時期、抜け出せない苦しみがある。」 

 

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大学時代、日本で一番にお世話になったという狩野さん。彼もまたパソコン室のアルバイトのスタッフ。互いにキャンパスの近くでひとり暮らしをしていた。ご飯を一緒に食べ、旅行に行ったり多くの時間を過ごした親友。卒業した今も頻繁に電話をするほどの仲良し。

 

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決断のときは今


 帰国し、今まで日本に帰ることを悩み続け、じき8か月。日本に帰るかどうかの決断のタイムリミットは8月末としている。

 9月の下旬には千葉県で開催されるゲームショウの通訳として4日間、日本にやってくる。日本語学校から仕事を紹介された。「香港人とマカオ人が共同で立ち上げた新しいゲーム会社が出店することになり、学校から通訳の仕事を紹介された。流れが良ければそのまま日本で生活することも考えている。」

 どのように働き、両親のことに対しての解決策も模索している。それでも、時間は刻々と過ぎていく。「遠い将来深いことは考えていないあることをやらないと次やらない。並行でやれない。不器用ですから。」

 

さいごー1度きりの人生、1つしか選べない進む道

 日本語の上達と、仕事、遊びや旅行を含めた数多の経験。アニメがきっかけとは言え、ここまで日本にハマるとは思っていなかった。とインタビューを終えて話していた。「日本にはじめて行くときにビビることはなにひとつなかった。希望によって恐怖感は押しつぶされていた。」

 現在は持っている武器が多いが故の悩み。文章では中々語学力が読んでいる人に通じないのが悔しいが、誰もが話せば驚くだろう。マカオに帰国して、1週間後には狩野さんに電話で「こんなつもりじゃなかった。」と話していたようだ。それからの7か月間、多いに悩み、何とも言えない感情で暮らしていたに違いない。来るか、来ないか。の2つの選択肢しかないが、どこか話しながらも、彼の心の奥底ではすでに答えが出ているような気がした。

 この記事をアップしたのが、今月の27日。アップする前日に「進路は決まったかい?」と聞くと「契約はまだしてないけど、物件は見つけた。戻る可能性が高いよ。」と返事が返ってきた。新しいステップアップとなりそうだ。彼を交えて遊ぶ日がまた増えることだろう。